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2006/6/22  *
もう一つの目を持ち歩いている。 記録や記憶ではない新たな体験が写真。

2006/6/21  *
成功したかしていないかはわからないし、この際問題ではない。ただ今も続けているかということ。写真で飯が食えるとかはプロの条件として大切な要素ではあるだろうけれど、そんなことよりも、写真というものに対峙する切迫した自分自身が常にそこにいるかどうか。その方がもっと大切な問題だ。                      

2006/6/20  *
毎回、仕事でカメラバックを持って家を出る時に、その重さを感じる度合いでその日の自分の調子を確認する。ほぼ毎回同じ重さなのに、気分が乗らない時は、石のように重くて、引きずるように仕事に向かう。逆に乗っている時は、バックさえも持ち歩いている感じがしない。

2006/6/19  *
写真が楽しいばかりの時はまだ学芸会の延長だろう、自らと写真についてこだわり続けていくと、写真が好きだ!ではクリアにならない壁にぶつかるはずだ。

2006/6/18  *
写真は全て過去だ。ともすれば後ろ向きになってしまいがちな写真を 前向きに生きていく人生の糧にしようとやってきた。                      

2006/6/17  *
カメラがなくても写真家になる。三分間写真。身の回りにある、ありとあらゆるものが、自分の身体を通過することでアートになる。なんでもいいのだ。気がつくことだ。そしてとことん試みることだ! マンションの覗きレンズからの世界。ドアごし暗箱を作って移動する。覗きレンズからの映像。

2006/6/16  *
知識を得ることによって、自分自身が直接触れることのなかった違った環境での事物を知る。知れば知るほど、生き方と考え方を狭めては、それは果たして知と言えるだろうか。知は、得ることによって、自分とかけ離れた事物を認め理解することにあると思う。

2006/6/15  デジタル写真
 写真の世界にデジタルの波が押し寄せてきて久しい。ぼくも、デジタルカメラ(以下デジカメ)を使ってみて、銀塩の世界とは違う楽しさがあると気がつく。撮影した画像が、その場ですぐに見ることができるのが面白いし、それがかえって面白くないとも言えるかもだが。かつて写真は、撮影してフィルム現像してプリントするという工程を経て初めて画像を見ることができるというものだったが、デジタルカメラの登場と発達によって、その時間をかけて「どうなっているかなあ、上手く写っているかなあ」などと、思いを馳せる時間などなく、スイッチ・オン!で撮影した画像が瞬時にモニターされる。でも何か足りないなあと思って何でだろうと考えてみたのだけれど、かつての写真プリントとして、形と重さ(物質とでも言おうか)らしいものが手に取れないからなのかもしれない。もちろん、デジタルデータをプリンターで出力すれば写真として見ることができるが、感覚としてデジカメの写真を見るためのプリントアウトという方法は、撮って見るという、一工程の中にあるものではなく、見せ方の一つの方法としてあるように思えるのだ。
デジタルデータの写真は、データのままそこで完成するのではなく、例えば出版などの印刷として使用されるとか、ホームページに画像を載せるとか、CD−ROMに焼き付けるなど、次なる何かの媒体に使用されるには、今までの銀塩写真よりも容易に感じる。しかし、写真の楽しみ方は、撮って見るというだけではないともいえる。銀塩写真の煩わしい工程が醍醐味ともいえるのだ。もっとも写真誕生の頃は、フィルムも印画紙もなく、金属板の上に感光剤を塗布したり、または、ガラス板に薬品を自ら塗って画像を得た。薬品も自分で調合し、場合によってはカメラも、西洋から輸入されたの写真手引書に記されている設計図を読み取りながら制作した。煩わしいと思われることは、角度を変えれば、それが楽しいと言える工程だったりするのである。これは写真を趣味や嗜好としている人達の意見なのかもしれない。職業プロとして写真を使用している人の中には、煩わしい工程は自分でなるべくやらないで、完成までのコストダウンと時間短縮などを第一としているだろう。もうひとつ写真作家として写真を使用している人は、煩わしい工程を端折るのではなく、なるべく手塩をかけていくことによって自らの手の跡を写真に残すということを意識するのではないか。そのために写真作家ほどデジタル画像というものに、後手後手になる可能性がある。実はここが落とし穴であるように思われる。実際にデジタル画像で写真を作ってみるとわかるが、手作業のようなことが随所に見られるのだ。ただそれがパソコンのモニター上などで、ボタン一つで変化したりするから、簡単そうに思える。しかしボタン一つだから簡単に思えるというのなら、今までも写真を撮るにシャッターボタンを一つ押すのではないか。だから簡単なのだとは言えない。写真を得ることの手段の範囲が、より広がっているのだという捉え方でいいのではないだろうか。写真にとっては、選択肢が増えるということは誠に喜ばしいことだ。表現の可能性がまた追加される。肯定的に受け入れてみるのが写真がよりいっそう面白くなる秘訣と感じる。ぼく自身は究極のところカメラも表現手段も何だっていいと思っている。勘違いしてほしくないが、適当だといっているのではない。これじゃなければいけないということは、そこにあるのではないと言いたいのだ。本当は、もっとピュアに、自分自身から湧き出してくる、何かを生み出そうという力なのではないか。高いカメラやお金をかければ確かに質が高まるのかもしれない。写真作品ということを考えればそれだけで作品のクォリティが高まるとは考えられない。使い捨てカメラだろうが子供が持っているカメラだろうがデジタルだろうが、そのものの特徴を楽しみとして表現に高めていく自分がいるかどうかが一番大切なのだと思う。
椅子に座ったまま苦虫噛み潰しているよりも写真の海で楽しむ方がいい。

2006/6/14  *
写真を撮りつづけて行きたいけど、どうして行ったら良いのかがわからないとか、迷って いますとかいう人に、メッセージしたいと思います。写真を撮り続けることについてプラスになるかなと思うページ にしていきたいです。時には優しく、時には厳しく。。。 谷口雅彦 .

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